シンガポールでフリーライター業と子育てしながら考えたこと

宮うち みかです。フルタイム業、フリーライター業、家族の愛情補充に奔走する日々。「人生最高潮に忙しい時だ、これ・・・」と、ずっと思い続けています。忙し度更新が止まりません。

小学生の詩を可哀想がるのは、親離れ出来てない人達です。

 ちょうど一年前の2016年7月にSNS上で話題になった小学生の詩をご存知でしょうか。その反響をつらつらと眺めた後で私が抱いた感想は、「日本人は、親離れしてないひとがずいぶん多いんだなあ」というものでした。

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まずは、その詩そのものを以下にご紹介します。

「ほめて ほしかった」 

きょうは あさ はやくから

べんきょうを した。

みんな やった。

これは きっと ほめられると

おもった。

どんなに ほめられるのかなあと

おもった。

ほめられたら いいのになあと

おもった。

にこにこして、おかあさんに

見せたら

おかあさんは、ほめてくれなかった。

「土よう日の ぶんも しなさい。」

と はんたいに おこった

わたしは なきました。

 引用元:

 

この詩は、高知新聞に掲載されたものだそうですね。

これがSNS上を駆け巡ったときにくっついていたコメントは、具体的には、こんな感じです。3つのタイプに分けることが出来ました。

★“母としての罪悪感に涙しちゃった”系。

「何だかすごく胸がしめつけられた…。  同じ一年生の子供がいるから、 私も気を付けてもっと褒めてあげよう。」

「子供ってママやパパに褒められたくて親のことすごい見てる。 いっぱいすごいね、えらいねって抱き締めてあげよう。  今日も怒ってばかりだったな未熟な母親でごめんね」

 引用元:

lenon.tokyo

  

★“ひどい母親だな褒めてあげろよ”系。

hiro_pismo @hiropismo

返信先: @rimpackingさん

目一杯褒めた時の嬉しさに満ち満ちた表情、お母さんは見たくなかったのかなぁ。仕事柄中学高校生と接してる日常にあって、自分なんかはそんな生き生きとした喜びに満ち満ちた表情や言葉が生きがいの大黒柱になってるというのに。かわいそうだなぁ。

 引用元:

quiizu.com

 

★“子どもをかわいそうがる”系

読んでて、私も泣きました。

がんばったことを ほめてほしかったよね。

お母さんが 喜んでくれたら、うれしかったのにね、

悲しかったね、でも、よくがんばったよ、

心の中で 女の子にエールを送りました。

そして、ひょっとしたら 娘に似たようなことをしたかもしれない

…という罪悪感も わいてきました。

 

 引用元: 

ameblo.jp

 

これは“罪悪感・涙”系とのコンボですネ。

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これらの意見は概して“子ども目線”であり、かつ、この状況を「どちらかというと、よろしくない」とジャッジしています。

私も人の親ですから、もちろんそれらの感じ方は理解できます。

しかしながら、フェアじゃないなーとも思いました。だって“お母さん目線”は探しても見つかりませんでしたから。全然「様々な意見」なんか無いじゃないか、と。

フラットな視点に立てている人は、少なくとも発言している中では、皆無でした。

 

■ フラットな視点に立つと、こう見える。

詩という文学を鑑賞するときは、言葉そのものはもちろん、言葉の裏にある物語や空気に思いを寄せて楽しみます。ですよね。

この詩における子どもの気持ちにつきましては、皆さん想像逞しくされているようです。ですから私はここで孤軍奮闘、お母さんの立場に立ってみようと思います。


お母さんはどうして褒めなかったのかな?と勝手に想像して、返歌にしてみました。

ではどうぞ!

  

「ほめて あげたかった」

昨日、土曜日は あさ はやくから

べんきょうを すると、あなたは言った。

でも、全然やらなかった

やらないで、新しく買ってもらった、マンガを読んでいた。

ちなみにそれは しゅくだいを やるからと
あなたが言ったから
がんばってね、と買ってあげたマンガ。

いつ やるのかなあと おもった。

宿題やったら いいのになあと

おもった。

だって あなたは
月曜日から金曜日まで
一つ残らず全部 やっていなかったから。

にちようび。
あなたはにこにこして、おかあさんに

しゅくだいを 見せてくれた


土よう日のぶんだけやっていなかった

 

「土よう日の ぶんも しなさい。」


あなたは ないた

おかあさんも ないた。こころのなかで。

 

ハイ。
いかがでしょうか。

 

私が言いたいのは、こういうことです。


子ども側にも、言われるなりの理由や事情があったのかもしれないし、
方やお母さんは、このときは、ただちょっと疲れ気味だったのかもしれません。

良いも悪いもなく、

お互いにそのときは
その対応しか出来なかった


ということではないでしょうか。
で、それ以上でも、以下でもない、と。

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こういう状況というのは、大抵の親子間にあるものですよねぇ。(うちはナイ、とか、そのやり方は間違っている、コーチングではアドラーではとかいうご意見は、どうぞご自分のブログかなにかで主張なさって下さいネ)

 
実際子どもの学校のクラスランチとかでは、「うちの子はピアノを練習しない」とか「忘れ物が多い」「どうしたらいいんだ」などなどの子どもに対する愚痴が、話題のほとんどを占めます。



■ 我が家もあります。

 ちなみに現在3年生の三女は、シンガポールの現地校と、日本語補習校に通っています。つまり、小学校1年生から3ヶ国語を勉強しています。そして彼女は、いつも山ほどの宿題を抱えています。ですから上の返歌のような状況はハッキリ言って、日常茶飯事です。

 

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というかあの詩は、私の心の詩です。(もう一度スクロールで戻って、しみじみと読んで下さってもかまいません。)

で、そんな生活を三女に強いている私たちいう風に見る方は

1年生にはハードすぎる、かわいそう。
宿題が姉達に比べて多すぎる、かわいそう。
学校の始まる時間が早すぎる、かわいそう。
母国語が中途半端で、かわいそう。



そんな風に、非難したくなるかもしれません。


三女が姉達と違う教育を受けるに当たり、当然そのような言葉は何度も頭をかすめ、思い悩み、考えをめぐらせ、夫と話し合いを重ねました。そうして我が家なりの決断をしました。その理由は一口では当然言える物ではなく、また、他人に言葉を尽くして説明する義務を、これまた当然ながら、私達は持っていません。


何が言いたいかと言うと、

それぞれの家庭の間で、親子の間で、
他人には計り知れない色んな状況があるよネ、

っていうことです。我が家にもあるし、お宅にもあるでそ。

だからすぐそこに見える景色を良いとか悪いとか、カンタンには言えないよね、と言う風に私は思います。
 

そんな風に、中立の立場で見る視点を、フラットな視点と、ここでは呼んでいます。

 

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■ “そうせざるを得なかった、理由があるに違いない”というメガネをかけてみると。

フラットな視点でモノを見るとは、どのような場面に置いても、“その人には、そうせざるを得ない理由があったんだろうな”というメガネをかけて物事を見ることです。


そのメガネを通してこの詩を今一度見てみると、そこには、こんな世界が広がっています。少なくとも私にとっては。

   ↓

お母さんの関心はどのような形であれ、娘ちゃんに向かっている。

娘ちゃんはお母さんが大好き。

 

以上。

 

みたいな世界です。

ね。

ほのぼの。

クラスランチの愚痴だって、ほほえましいですよね。親がいて、子がいて、なんやかんやと言い合っている。なんとも平和ではないですか。我が家だって平和です。平和裏に、マンガをこっそり隠したりしています。そして気付かないのが三女のいいところ・・・?

 

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■ それと、「褒めること」について。

と言いつつも、三女は、自分で計画を立ててやり遂げる日もあるし、そういう日は以前に比べると断然増えてきました。

そうすると、いい気分で遊べた、テストがいい点だったと、何らかの結果として、彼女自身に跳ね返ってきます。それは本人がよく一番分かっていて、嬉しそうに私に報告してきます。私は「そうか、よかったね」とニコニコして聞いて、一緒に喜んでいます。

特には褒めません。

 

そしてある週はまたサボりまくり、結果次の週末は押し黙って宿題の虫になる・・・という繰り返しではありますが。引き目で見て、ずっと前の状態と比較すると、彼女はそれはそれは成長しております。

 

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ですから、やたらめったら褒めりゃあいいというものではないと思うんです。褒めないと動かない子になったら、困るでそ。大体、べんきょうは褒められる為にするものではないですしね。まあ小さい頃は、ひとつのモチベーションではあるけれど。


■ 親離れ出来ていない人たちの、“投影”という、色眼鏡。

上記のようなフラットな視点を持たずに、この詩を「悪いわー」「ひどいわー」「かわいそうだわー」と断じている皆さんは、ハッキリ言って子ども時代の自分を投影しています。

重ね合わせて哀れんでいるのは、実は当時の自分です。“投影”という色眼鏡をかけている状態なんです。

 

だから、言い直すとイイと思いますよ。


自分は、
親から、
もっと
褒めてもらいたかったーーーーーー!



って。

 

この詩を読んで沸き起こってきたその感情は、ご自分がかつて押さえつけ、無理やりどこかに押し込めていたものです。

 

そして押さえつけた感情というのは、虎視眈々と世に出る隙を伺っています。この詩をきっかけにして、閉めていたフタが、開いちゃっただけに過ぎません。

 

そしてそういう感情を一向に開放せず、後生大事に持ち続けているということは、言い換えると、当時の親なり自分なりを過大評価しているということになります。

だって、「あのときの自分と親は、ああしか出来なかったんだ」とは思わず、「いやもっと出来たはず、なんで出来なかったわけ?」って自分と親を責め、期待し続けているわけですから。


お母さん、褒めて欲しかったよ!
お母さん、認めて欲しかったよ!
お母さん、やっぱり私がいけなかったの?!


ってネ。


ソレを世間では、
「親離れ出来ていない状態」と言います。


あ、世間ていうか、私から見ると、ですかね。


でもまあそれも、「そう思わざるを得ない理由がある」のでしょうネ。


***

それと、子どもが「すでに出来ている」ことに関しては、親はあんまり褒めないものです。

どうしてかというと、出来て当たり前だから。たとえば、主婦歴10年超の私が夫から、「わあ、上手に皿を洗うね」なんていわれようものなら、このひと馬鹿にしてんのかなってムッとしちゃいます。

この詩を書いた子も、褒められなかった事実に対して、それは
自分が期待されていたんだ、と解釈出来たらいいですよね。大人になってからでもいいから。というか、自然にそう思うようになるんじゃないかなー。


当時の自分も親も、精一杯やっていたよナア

なーんて、許せるようになったら、
親離れできた、ということかもしれません。

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いずれにせよ
素直な感性が作った詩は、素晴らしいですね!

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