拝啓、フキゲン妻の皆様@はてなブログ

毎分毎秒幸せ発見能力開花☆ごきげん妻を増やすコーチです

「公園デビュー」が死語にならない理由。「こんな私だと思われたくない」のが原動力なのって、辛くないですか?

■ 突然ですが、

私はママ向けのアドバイザーの資格を持っているのですけども、ママに留まらず、全く異ジャンルの方から相談を受ける事がたまにあります。中でも、不倫の相談を受けたときは心底仰天しました・・・。自慢じゃないけど経験ありませんからね。しかし私なりにあれこれと考えた事を言っても、恋は盲目とよく言ったものです。真っ最中の方々というのは、聞く耳ゼロであるという事実を、そこから私は学びました。

■ とある相談を受けて考えた事

まあそれはいいとして、相談して頂いた方の中に「宮うちさんのように冷静になるにはどうすればいいのか」とおっしゃる方がいまして、私は自分が冷静だとは露程も思えないのでこれまた仰天して話を聞いてみると、どうやら“感情的になると突っ走って体当たりして玉砕して自分も周りも傷つける”というような行動パターンをお持ちのようでした。

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ちなみに、我が家の突っ走る人。



で、何度もしてるけどもうこういうのはやめたいというのが相談の主旨でしたが、どうもその方がとる行動のモチベーションというのが、「こういう自分はイヤだ、そういう人だと他人から思われたくない」という、ネガティブなものだったのです。

■ ネガティブな動機って??

「現実をこういう風にしたい、だから」という動機がポジティブなのに対して、「これが嫌だから、だから」という動機がネガティブと表現しています。

ネガティブでもポジティブでも、アクティブならいいんじゃないの?と言われるかと推測します。はい、その通りですよね。良いも悪いもない、それはただの結果ですから。


ちなみにご相談された方は素敵な男性で、確固たるポジションをお持ちですし、プライベートも充実して幸せそのもの。ですから私ごときが「いや、それは、やはり」なんて物申す権利もその気もさらさらありませんし、私が逆に教えてもらいたいことだらけだったのですよ。

しかしながら、彼の相談をきっかけに、「ネガティブな動機」なるキーワードが私の心の片隅に住み着いてしまったのです。

 

その理由はというと、「・・・うーん。。よく分からないな」という状態のまま、ある日「公園デビュー」に関する記事を依頼されました。

itmama.jp

(あの、最初にお断りしますが、ゴマキは本文の内容に、ぜんぜん関係ありません。ちなみにタイトルも、ライターの手からはかけ離れたところにあります)

■ 「公園デビュー」が死語にならない理由


「公園デビュー」って、未だに使われるんだなあ、ふうん。と何気無しに調べてみると、なんとこれは90年代の頃、バブル臭漂うあの時代に産まれた言葉なのでした。

公園デビュー - Wikipedia


団地妻とか、ジュリアナとか、そういうのとセットっていうことですよね。古いなー。もう、風化してもいいもんなのにな、と思います。「それ、死語ー。年がばれる!」って生意気な女子高生に腹抱えてアハハと笑われるようなレベルですよ、本当だったら。

でも何故こういう言葉を好んでメディアが使いたがるのかと言うと、やはりそこには意図があると思います。

・恐れを喚起する言葉としての「公園デビュー」

「公園デビュー」なる言葉の裏にあるのは、「自信の無さ」とか「恐れ」とかです。そういうニュアンスで登場することがほとんどですよね、この言葉って。「ママ達の輪の中に入れるか」「うちの子はうまくやれるか」みたいな、怖い感じ。まるで公園には、遊んでいる子どもとセットで「排他的で威圧的な恐ろしいママ達の派閥がある」ような錯覚に陥ります。

・恐れは人の目を集める

「自己責任」にも似た匂いがありますが、人の恐れを喚起する言葉は人々がとっても気になるのです。何故かと言うと、ほとんどの人は自信がないからですよね、きっと。メディアなんかにそんな小うるさく言われなくても、多くの人は「こんな私でいいんでしょうか」って周りをおそるおそる伺っています。そしてさらに、日本の都市部で子育てするママに当てはめると、この“自信の無い人率”はすごく上がると思います。

多くの人の注目を集めたいメディアにとって、恐れを喚起する言葉というのは、渡りに船、濡れ手に粟、・・・あと何かありますか。とにかく便利な言葉なんですね。

私も曲がりなりにもライターとしてお金をもらっているのだから、気をつけないといけません。何より自分がいやですよね、既に自信喪失気味のママを脅すなんて。全く本意ではありませんよ。だからこの記事は、「楽しむために」というポジティブな方向性を意識して書きました。

■ で、ネガティブな動機。
自慢じゃないですけど私はかつて自意識の塊みたいなママでした。例えばの話をすると、全然完璧になんて出来ないくせに、人が来るときは部屋はキレイにしないと嫌でした。“いつも綺麗にしているママと見られていたい”っていう自意識、エゴです。部屋を綺麗にする行為は、当時の私にとってはまず間違いなく“ネガティブな動機”に基づいていました。

・自意識が崩壊する瞬間をご紹介。
この自意識がガラガラと崩れる瞬間を私は経験したことがあります。それは三女が産まれて半年位たった頃、長女と次女の幼稚園での、お泊まり会の日のことでした。

長女は年長さんの仕事があるとかで先に行き、さて昼過ぎに次女を連れて行こうとすると、「いやだ、行きたくない」と。理由をきいたり、なだめたり、すかしたり、怒ったり、あらゆるアクションを起すもガンとして次女には通じません。

・・・思えば次女という人の“自分の感覚への忠実さ”は、小さい頃から今までずっと変らないのですね。。今でもごくたまにですが、特に理由無く「今日は休む。誰が何と言おうと」と休んだりします。

 

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突っ走る次女。

 

・ママ友、土足で上がり込む!!
わさわさと動く赤ちゃんの三女を傍らに置いて途方に暮れていたところ、玄関のインターホンが鳴りました。鳴らしたのは次女の一番の仲良し・Mちゃんのママ。私に代わって次女を幼稚園へ連れて行ってくれるために来てくれたのです。しかし次女は玄関に出てきません。するとMちゃんママは、靴を脱いでずかずかと上がりこんできたのです。全く他人仕様ではない、用意の出来てない、端的に言うととっ散らかった汚い部屋に!!私は凍りつきました。

Mちゃんママは鮮やかに次女を説得し、次女を連れて玄関から風のように去っていきました。私はまるでそのとき、Mちゃんママが土足でこの部屋に上がってきたかのような錯覚を憶えました。それくらい、衝撃的なことだったのです。“汚い自分の家に他人が上がる”ということが。

・「ガラガラ」という音を聞く(ウソです)
と同時に、感謝の念と涙が溢れました。全く見返りを期待しない純粋な愛を、その時の私は確かにMちゃんママから受け取りました。裸でむきだしの私だったからこそ、それが受け止められたのです。偽って、飾った自分では、理解出来なかったと思います。

次女が、三女が産まれてからよくやってきたこと、それでも忙しすぎる私を見て不安に思っていた事、その事実を一人ではどうしようも出来なくて、困り果てていた事を、その時はっきり自覚しました。

私は、誰かに助けてもらいたかったんだ、ということを。

そして、私の自意識が「ガラガラ」と音を立てて崩れ去ったのです。

■ ネガティブな動機の裏に、自意識あり。

ネガティブな動機っていうのは、ある側面においてはいいと思いますよ。例えば仕事の場面とか。上司とかお客さんの信用を勝ち取るためには、これはおそらく無視出来ないものです。

でも例えば「お母さん」として、普段着の自分で、行動のモチベーションがネガティブ、つまり、自意識を守るのが目的であるというのは、けっこう辛い事だと思います。

何故なら、「助けてほしい」と言えなくなります。どころか、「助けてもらわないとやっていけない自分」を認識出来なくなります。これはけっこう危険です。健康を害してしまうレベルに、簡単に自分を追い込んでしまいます。実際に産後うつになったことのある私ですので、その状態はよく分かります。

■ ポジティブな動機で動くママは、「公園デビュー」なんて気にしない
さて長らく読んで頂きましたが、ここでやっと点と点が繋がります!!私もここまで、「この文章、どこで繋がるんだろう・・・?」と疑問を持ちながら書いていましたが、やっとです!よかった!

自他共に認めるおばちゃんであるところの私は、全く公園デビューなんて意に介しません。ここシンガポールにも日本人ママの派閥めいたものはありますけども、全くどこにも属していません。(ええと、友人がいないわけではないですよ。。)

目的は、子どもが楽しく遊ぶこと。その楽しそうな様を、心楽しく眺めること。これにつきます。(子ども同士の喧嘩はさらに、私にとって心楽しいことなのです。。その理由はまた別の機会に)

ちなみに、同じマンションで一人だけ何かの集まりに呼ばれない、とかも経験あります。でも私にとって大事な人たち(家族ですね!)は、私の事が大好きだし、仲良しで幸せという自信を持っているので、自分の中の優先順位が下の方である赤の他人に嫌われると言う事実は、全く些末なことでした。

■ ポジティブな動機 = 自分自身
部屋の例で言うと、今でも私は綺麗好きです。空のトイレットペーパーホルダーが転がっているのも、本が本棚ではないところに転がっているのも、ものすごく気に食わないので、さっさと片付けてしまいます。

でも、それは、誰か他人のためではなく、一部の隙も無く自分のためです。

■ 自分に優しいポジティブな動機と、自分に厳しいネガティブな動機

そして私はマネジメントが上手くないし、そもそもやることがたくさんあるので、掃除ひとつにしても完璧には出来ていません。でもそれも仕方ないよなあ、とあきらめています。そういうときに人が来ても、「そういう時だからさ」と言い訳しています。(人にも、自分にもね)

子ども達の学校からの提出物すら、完璧には出来ません。もちろん、最善を尽くしているんですよ。でも、「鉛筆で書かなければならない書類に、ペンで記入した」と長女に怒られ(彼女は怒りすぎて泣いていました)、「PTA会費が出ていません」というメッセージに平謝りし・・・という日々です。いや、締め切りを守れる時もありますよ!もちろん。

でも「だめだなあ、私」とは思っていません。「あちゃー、失敗した。ごめんごめん。次はカレンダーのリマインドに入れるから」という風に前向きに考えます。それで嫌な思いをする人(子どもですけど)には、心から謝ります。

子供達は私の姿から学び、提出物はペンを持参してきます。「今、この場で書いてくれ」と。私はすごく感動して、お礼を言いました。ありがとう、これならママ忘れずに済むね!と。

自分が完全無欠ではないということが、誰かの成長に必要なのですね。だからいいじゃないですか、完璧でなくても。(たとえ子どもに「開き直りすぎでは」と言われようとも・・・)

っというふうに、ポジティブな動機による行動は、たとえそれが上手くいかなかったとしても自分を責めはしません。

対してネガティブな動機は、どうも自分を責めがちです。自分に厳しい。もし私がこんなに能力が無いのに、「提出物は完璧なママを目指すわ!」と意気込んでいたら、自分のダメさ加減に打ちのめされていたことでしょう。

■ おわりに。

ママ向けの媒体に記事を書いている私が一貫して伝えたいメッセージは、「あなたはそのままで完璧にOKな存在なんですよ」ということです。上から目線で「こっちへおいで」というのではなく、「一緒に、自分自身になりましょうよ」ってことです。それはかなり心地よく自分も他人も許せる、楽な場所なのですよー。ほんとに。

まあ、私もいまだに姑相手にはネガティブな動機で行動することがありますけどね。。

しかし出来る限り、ポジティブな動機で行動すること、つまりは自分自身でいることを心がけているし、これからもそうするつもりです。そのほうが楽しいしね。そして夫や子ども達は、きっとそんな私を見ることが心楽しく、嬉しいでしょうから。

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